クラシックロックドリルの世界
番外編 石刀(セット・セットウ)
ヘッド重量:1.1Kg ヘッド長さ:19cm 柄の長さ:42cm
石刀とは手掘り用のハンマーの事で、フランス語のMASSETTE(マセット:槌)が転訛したものです。
さく岩機が普及するまで、せん孔作業は鉱夫が石刀を振ってタガネを叩き、孔を明けていました。(孔深さ30cm~50cm)
石刀は打撃点に力を集中させるため一般のハンマーに比べてヘッド部分が細長く、また柄が長い事が特徴です。
正確にタガネを打つにはコツが必要で、打撃音から鉱夫の年季が分かったと言います。
鉱夫は右手の石刀で左手に持ったタガネを打撃する度に左手首を返してタガネを向かって左に回転させます。この動きはさく岩機にも引き継がれ、今でもさく岩機のタガネの回転方向は鉱夫側から見て左回転と一般のドリルと逆回転になっています。
石刀を振る鉱夫 (撮影時期:明治末期~大正初期 写真提供:古河足尾歴史館)
*右写真の鉱夫の右側に立て掛けてある先端が耳かき状の棒は、孔底の繰粉を掻き出すための道具でキューレンと呼ばれます。
(フランス語のCURETTE:キューレット が転訛)
1850年代のフランス火薬装薬孔セン孔用道具の説明図:
左からキューレン(Curette)、タガネ、装薬棒、火門針(装薬後、火薬の入った袋に導火線を差し込むための穴を明けるもの)、タガネ(四角)
引用:Le exploitation de la mine de Saint-Lon-Les-Mines. Jacques LAULOM et Bruno CAHUZAC (2012)
セット(石刀)、キューレンと鉱山道具にフランス語が使用されているのは、幕末から明治初期の鉱山開発に多大な貢献をした、フランス人鉱山技師ジャン・フランソワ・コワニェの影響が考えられます(日本滞在1867年(慶応3年)~1877年(明治10年))。
足尾銅山では彼の門下生であった中江種造(1846年-1931年)が、1875年(明治8年)から1884年(明治17年)まで、顧問技師として操業に携わっていました。
足尾銅山の拡大に伴って日本各地の鉱山から多数の鉱夫が足尾に集まり、最盛期(大正初め)には3千人を超える手掘り鉱夫が三交代で石刀を振っていました。彼らが地元で歌い継いでいた歌が足尾で一つになり「石刀節」という仕事歌になりました。
♪ 鉱夫さんとは名は良いけれど 奥山住まいで穴の中
♪ わたしゃ足尾の鉱夫の女房 坑内(シキ)を恐がる子は産まぬ
♪ 発破かければ切羽(キリハ)が躍る 踊る切羽に鉑(ハク)が鳴る
しかし大正3年の足尾式さく岩機の実用化により手掘りの仕事は急速にさく岩機に置き換わっていきました。
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1913年(大正2年) |
1916年(大正5年) |
1917年(大正6年) |
1926年(大正15年) |
1930年代(昭和初期) |
さく岩機台数 |
174台 |
398台 |
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約500台 |
手掘り鉱夫人数 |
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3483名 |
365名 |
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さく岩機夫 |
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242名 |
135名 |
約150名 |
引用1 村上安正 「足尾銅山史」 有限会社随想社 2006年発行 334ページ ISBN4-88748-132-2。
引用2 ASDニュース第46号 1972年(昭和47年)
注)大正末期の手掘り鉱夫、さく岩機夫の減少は第一次世界大戦終結による景気後退の影響も有ります。
足尾銅山の手掘り鉱夫達は機械化の進んでいない中小の鉱山に活躍の場を求めて流れて行きました。
彼らと一緒に「石刀節」も各地の鉱山へと広がり、地域の特色を織り込みながら歌われました。
次回はBC21(1920年頃)を予定しています。